経王寺縁起

 経王寺の歴史は古く、昔は真言宗で会稽山(かいけいざん・中国の山の名)薬王寺と称した。
 当山の開基は法音院日道律師で、北条氏政公の血族である。
 幕末慶応年間の寺の由緒に、寺の創立は正親町天皇の永禄年間と伝えられ、日道律師が遊化の途上当地に立ち寄り、時の住僧と法論に及び、住僧は説破されて改宗し、弟子となって実成院日政(寛永九年二月十九日寂)と法名を賜った。そして、山号を一乗山、寺名を経王寺と改称し、日道律師を開基と仰ぎ自ら二世となった。
 出石藩の城主前野但馬守永康公は、当宗門への帰依厚く、永康公により東西三十三間、南北六十四間余の寺領を得ている。その後、小出家にも代々の庇護を受け、元禄十年には、松平家も当山を菩提寺と定めている。
 宝永三年(一七〇三)当山第九世感通院日完上人の時、松平家が信州上田に藩地交代となり、上田より仙石越前守政明が移封するが、この時日完は信州上田に使僧一名・檀中惣代釜屋喜右ヱ門の両名を遣わして、書簡でもって、前野但馬守・小出大和守・松平伊賀守等代々の城主にお目を掛けられており、菩提寺の格式としても恥じないので、移封後は仙石家も当寺を菩提寺とされるよう申達し、仙石家の位牌は全て当山に安置されている。
 天保の火災で伽藍焼失後、第二十二世寂常院日芳上人は、藩主に伽藍の再建復興を願い出て、工事を完成させた。
 第二十八世能淳院日好上人は、昭和六年宗祖日蓮大菩薩第六百五十遠忌を迎えるに際し、一意発起、庫裡の建築・廊下の再建・本堂内陣の荘厳具当を完備している。
 なお当山には、仙石家八代久行公(大慈院殿)の墓所、奥方・子供・それに家老等の墓があり、また仙石家に伝わった元祖秀久公(圓覚院殿)出家得度姿の尊像を安置している。また、藩主の書画も数点格護されている。境内には勤皇の志士、多田弥太郎の墓もある。
 当山の庭園・鐘楼・勧進状は出石町の文化財の指定を受けている。

 終わりに、当山にとって何よりの慶事は、昭和五十八年五月五日に開基日道律師の御真筆がゆずられ、四百二十年ぶりに帰山されたことである。これは昭和五十一年度に行われた、立正大学の宗宝調査団故宮崎英修博士等により、宇治市直行寺(北村壽宏住職)で、天正九年の宗祖日蓮大菩薩三百遠忌勧進状が発見されたものである。

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